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ありのままの自分が大好きです

この世で一人しかいない尊い存在です。人と比べる必要なんてありません。病でどん底に落ちて知りました。幸せは生かされてる事を感謝する事です

野球部のエース「負け戦で死ぬのは嫌だ」

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こんにちは今日は。休みで朝は出ていきましたが

昼からは、とても出ていく気にならないぐらいの

猛暑です。明日もそうでしょうね。

明日は終戦記念日ですね。戦争といえばあの神風

特攻隊、勇気はありますが本心では「泣いてたんですよ」


太平洋戦争末期の1945年、旧制神戸1中のエースだった
 

特攻隊員は、爆弾を抱えて敵艦に体当たりをする

神風特攻隊員として、飛び立った。慶応大学在学中の


学生出陣だった。若者はどんな思いで死んでいったのか?



昨年9月。戦時資料を収集、分析する大分県の市民団体

「豊の国宇佐市塾」は、戦後75年に合わせた写真店の準備中に

発見した。プリントとネガ約2千枚に及ぶ膨大な資料の中


軍刀を持ったりりしい青年の写真の裏に、鉛筆の走り書きがあった。


「こんな負け戦で死ぬのは嫌だ」出口まで。


「そんな大きい声で言うな。聞こえたらヤバイ」


判読すると、そう書かれていた。

「島 S20、4,16 特攻」とも記され、島さんと同じ

宇佐海軍航空隊の特攻隊にいた「中村」という名が添えられていた。

他の記述も踏まえ、同塾は九州大学名誉教授中村正夫さんによる証言と特定。

記者が大学に問い合わせると、すでに亡くなっていた。


メモは戦後、生き残った隊員が学徒兵の資料を集める中で

記録した可能性がある。同塾は「出口」とは兵舎の出口と推測。

他の部隊員に聞かれたらまずいと、島さんの発言を中村さんが

試してるように読める。


島さんについて聞き取りを重ねた元海軍の頴川良平さんが言う。


「まけいくさでー」は正直な気持ちだと思う。

勇ましくしていても、負けることは分かったいたのだから。

遺書の後半は字が乱れて読めなくなっていた。

それくらい苦しんだのではないか?


島さんは4人兄弟の次男だった。「神戸ー中、神戸野球部90年史」

によると、エースとして活躍した。打たれると向きになったが

太っ腹な親分肌の面があったという。


慶応大学に進学後、「海軍14期飛行予備校生」として召集。

45年4月16日、特攻隊として第二国分基地から

沖縄近海へ出陣した。。


エンジンの不調でいったん引き返したが後に

再び飛び立ち、戻らなかった。


24歳だった。


頴川さんも旧姓神戸商大を卒業し、海運に入った。

戦後は大手ゼネコンに就職。生涯の伴侶と娘2人に恵まれた。

戦争は遠い日の出来事になりつつあった。


だが、島さんとの再会は突然訪れる。

六甲山麓にある寺を訪れた84年のことだ。

長女の夫の実家の墓参りをした帰途、墓地の突き当りに

「島」という1文字が見えた。


もしや、近ずくと、墓石に島澄夫の名が刻まれていた。

あのラジオの記憶が鮮やかによみがえる。

頴川さんの慰霊の旅が始まった。。。。


(写真は島さん本人ではありません)



明日は終戦記念日ですね。亡くなった方々の事を思って

追悼しないといけませんね。


あの特攻隊員は、今どこかでみんなを見ているであろう。。


戦争は、二度としてはいけない。。。


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