人は惨めな罪人で、地獄にふさわしい者であり、良いものを頂けるとすれば、それはただ神の憐れみによるもので
苦しみを免れる事を期待する立場にはありません。ところが、いったん苦しみが自分の身に降りかかると、それを
不公平だとか思えないのです。それは、明らかに聖書の御言葉が告げる人間の罪深を自分自身のものとして心から
とらえていないのです。キリストは全く罪が無いのに我々の罪を背負い十字架について死んでくださいました。
聖書は言っておられますが、本当にそれを心から信じているかと言われますと、自分自身どうも分からなくなる事が
あります。その時は必ず高慢になっている時です。日々、食べられ、働けて、生きているのが当たり前に思えてきます
それだけすぐ神から離れていく弱いものです。人それぞれに試練、苦しみを与えられるのは、へりくだらしていただくために
神が与えてくださっているのだと思います。
「艱難さえも喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐がねられた品性を生み出し、
ねられた品性が希望を生み出すことを知っているからです。」(ローマ書5,3~4)
肉体を鍛える訓練と同じように、苦しみは忍耐を生み出します。苦しみと信仰と神との和解にある喜びが合わさると
忍耐が生まれます。でも人の心の奥深くには、楽したいという怠慢な心があるのですね。
この世の中、いろんな事件、事故で多数の人は命を失っています。いたいけな子供が死ぬ一方で悪者が
生き長らえる事に、不公平があるように感じますね。でも、死は私達の罪の最終的な結果であり、生きていることは
神の愛なのです。私が思うのは、どんな死に方をするとか、何歳で死ぬかは問題になりません。問題になるのは
わかっていても
人の死ぬ時の心の在り方では無いでしょうか。いかに、へりくだっているかが大切です。でも、私達は心の底では
長寿を全うする権利があり、神には私達を生き長らえさせる義務があると思うところがあります。
人はいつ死んでも当然な者だと言うことがわかっていても中々そう思えないのです。人間の罪深さ、高慢な心です。
人間の目的は?天国に帰ることです。それには神、イエスキリストです。この方を信じることです。