今日で震災が起きて10年です。
そんな中あの志村けんさんが残した
思い出は沢山あります。
タレントの志村けんさんは
駅長姿の等身大のパネルで
昨年の4月までの7年近く
乗客を迎えていた
パネルの前には意見を入れる
「志村箱」があった。
入り込んだ湾の近くに位置する
東日本大震災で鉄路が寸断され
てから2年後の2013年4月
志村さんは運転が再開された
ホームに立ち「非常勤駅長」として
一番列車を見送った。
「笑顔」と「夢」を運ぶ鉄道
そう話していた。パネルも箱も
自らの提案から、1日駅長とは違い
非常勤駅長ならタイミングが合えば
行ける。意見も必ず自分が読む
三鉄側にはこう伝え、再び足を運び
昨春、新型コロナウイルスによる
肺炎で亡くなるとパネル前には
献花台が設けられ県内外から
多くの人が訪れた
今はパネルの箱もない。
感染の広がりを受けてほどなく
撤去されたからです。
かつての写真、そして笑顔と
「元気を届けていただいた」
など感謝をつずった社長と
大船渡市長名の文章が貼ってある
10年前の大津波は沿岸を走る
三陸鉄道の駅も襲った。
海に近い道路は瓦礫の覆われ
車も人も通行止めに。
人々は山側の線路を歩き
レールの上に積もった雪には
たくさんの足跡が行き来していた
何を運び届けるのか?
県の第三セクターで経営難の
鉄道会社が下した判断は
「地域の足として」
早く列車を動かすことだった
社内外からは
「地域のがれき撤去」
「長年赤字だから撤去する」
こんな意見も聞こえてきた
しかし、「車も財布も流され」
「家族の状況を見に行けない」
そういう人ばかりだった
この事が当時の社長の背中を押した
線路に異常がないと確認できた
区間から無料の
震災復興列車を走らせた
「警笛を鳴りっぱなしにする」
そのようにして区間ごとの試運転で
運転士にこう指示を示す
通り道としてなお歩く人も
いるかもしれないから
列車はゆっくり動くこと
警笛が響く
沿線で片付けてる人たちは
顔を上げて手を振っていた
復興支援の1番列車は
揺れと津波から5日後の
16日に走り出した
「ありがとうございます。」
そんな人たちの声が
一歩一歩前へ進む力となった
(朝日新聞の掲載記事です)