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ありのままの自分が大好きです

この世で一人しかいない尊い存在です。人と比べる必要なんてありません。病でどん底に落ちて知りました。幸せは生かされてる事を感謝する事です

生かされてる喜びを知った人の証し

口の筆を通して遠い地へ旅立てることを、嬉しく思います。

今私の前には冬の山が連なっています。木の葉の落ちた山が

リスの尻尾のように暖かい色をしているのは、寒いわたしたちに私達に

対する自然の配慮かもしれない。私は少年のころ、この山をちょっぴり

憎んでいました。父母のように土にまみれ、狭い畑をかきまわしながら

送る山の生活が、耐えられなかったのです。

お金や、地位など、一見幸せそうに見える者が、山の向こうに

あるように思っていたのかもしれません。

「いつかきっと。。いつかきっと。。。」

なんて思いながら、山を見上げていたのを覚えています。


その「いつか」がとんでもない方法でやってきたのは

大学を卒業した年の6月でした。昭和45年、勤務先の

学校の体育館での一瞬の出来事でした。


鉄棒の宙返りに失敗して、倒れてる私を、生徒たちは、ふざけてるんだと

思ったそうです。首から下が全く動かなくなっていました。


過去の苦しみが後になって楽しく思い出せるように

人の心には仕掛けがしてあるようです。


9年間の病院生活を振り返ってみると、辛かったことより

友人や看護婦さんたちの、励ましの言葉の方が、寂しかったことより


生徒たちの大変明るい手紙の方が、病室の天井より

窓辺で一生懸命咲いている花の方が、目に浮かぶのです。


死にたいと思ったことより「生きろ」と教えてくれた

母や聖書の言葉の方が、強く残っているのです。


今私の前には少年のころ見上げた山と変わらない山があります。

曲がった小道と、山すその畑で石のように働く人々のいる、故郷があります。


車椅子の輪の影が虹のように大きく伸びるころになると

遠くの小学校からオルゴールが流れ、夕日が、山も木も私も


同じように染めながら沈んでいきます。

夜があるから朝がまぶしいように、失った時、初めてその価値にきずきます。


何気なく動かしていた指、当たり前のように歩いた足。。。

しかし、目に見える物よりも、もっと大切なものがありました。


もしかしたら、失うということと、与えられるということとは

となり同志なのかもしれません。


私の「いつか。。」は、少年のころ夢見た出世や、地位との出会いではありませんでした。

自分の力だけで生きていると錯覚していた、小さな私と


大きな愛との出会いだったのです。

それは何物にも変えられない素晴らしい出会いだと思っています。(富弘より)


星野さんは、どん底に落とされて、罪にきずき、大きな愛(神の愛に)

きずかれたのです。感動のドラマです。


この方の詩と、口筆で描いた絵は素晴らしい、神の愛を語っておられます。

聖書と出会い、180℃大転換、障害が喜びに代わったのです。

生かされてる事を感謝できるのは、それは最も弱い時である

そうです、自分の力のなさを実感した時に、心から感謝できるのです。

星野富弘 花の詩画集「鈴の鳴る道」

星野富弘朗読集3 体育館の天井 (全身麻痺の画家)











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